しかし、その顷第2次世界大戦の戦况は悪化の一途をたどり、1943(昭和18)年10月には満20歳に达した文系学生の徴兵犹予が廃止され、终戦までの间、约3500名の塾生が学徒出阵により戦地に送られた。
また当时の文部省は校舎の贷与を庆应义塾に求め、日吉キャンパスでは1944(昭和19)年3月から第一校舎や寄宿舎などを海军省に贷与することになった。日吉は地理的に霞が関(海军省?军令部)と横须贺(军港)のほぼ中间に位置し、无线通信环境も良好。しかもキャンパスの寄宿舎は鉄筋コンクリートの坚固な建物で、个室も多く司令部机能はもちろん、居住环境としても最适と考えられたのだ。
まず海军による寄宿舎の全面使用が始まり、同时期にキャンパス地下で军事施设の建设が急ピッチで进んだ。建设された施设は军令部第叁部退避壕、连合舰队司令部地下壕、航空本部等地下壕、人事局地下壕で、総延长距离は约2.6㎞に及ぶ。キャンパス外部には舰政本部地下壕も作られ、これらをまとめて「日吉台地下壕」と呼ぶ。
1945(昭和20)年4月、日吉キャンパスは空襲によって工学部校舎の約8割が焼失した。同年8月14 日に日本は連合国軍に無条件降伏を決定。米軍が最初に日吉キャンパスに足を踏み入れたのは東京湾上の戦艦ミズーリで行われた降伏文書調印の2日後の9月4日と言われている。同8日には「日吉軍事占領の命令書」が渡され、米軍による日吉キャンパス接収が始まった。